【いつも蕎麦にいるよ】二杯目 JR品川駅『常盤軒』
【登場人物】
藤田千春(28)建設会社事務員
【登場そば屋】
JR品川駅 山手線ホーム『常磐軒』
かき揚げそば ¥440-
8時23分。
私が毎日乗っている電車が時間どおりに川崎駅に到着した。
歩けないほどにホームはごった返している。
毎日毎日いったいどこにこれだけの人が向かっているというのだ。
携帯電話に声を掛けるだけでなんでも教えてもらえる時代だというのに、毎朝行われる満員電車の戦争は終戦に至っていない……。
そういう私も当事者の一人だから何も言えないが。
比較的乗り込みやすい後方の列車に乗り込む。
最初のポジショニングが大事だから、体勢を整えようとするのだが、次から次へと乗ってくる人に押されて、結局は立ってるのが辛い体勢になってしまう。
チークダンスだってこんなに男と密着しないのに、冷静に考えたら異常だ。
発車してからは、ただただ時間が過ぎるのを待つ。
10分後、品川駅に到着して、ようやく缶詰から解放される。
階段を上り、山手線のホームへと移動する。
鰹だしのつゆの香りが流れてくる。
美味しそう……。
今日も朝ごはんを食べれなかったな。
山手線の階段を下る時に、いつもそば屋の匂いに襲われる。
階段下にそば屋があるのは知っていたが、それどころではない。
すぐにやってきた山手線に乗り、私は五反田にある会社へと向かった。
建設会社の事務作業が私の仕事だ。
若い女というだけで、チヤホヤしてくれるから居心地は悪くない。
ただ、私はなんのために満員電車に詰め込まれてまで、この仕事をしているんだろうと疑問に思うことも多かった……。
岐阜市の地元から離れたいと思って、なんとなく決めた東京の大学。
結局やりたい事も見つけられずに、なんとなく決めた仕事。
帰ってもテレビを見ることしかない、なんとなく続けている一人暮らし。
私はなんとなく生きて、なんとなく死んでいくんだろう。
悲しみもない代わりに、喜びもない人生。
そんなことを考えているうちに、今日の業務が終了した。
帰りも帰りで、夕方のラッシュに巻き込まれる。
仕事よりも通勤時間の方がどっと疲れる。
家に着いて、晩ごはんを作る。
今日のパスタは美味しくできた。
食べてもらう人がいないのが悲しいが、一人暮らしで料理の腕だけは上がったように思う。
食後にテレビを見ていると実家から久しぶりに電話があった。
お爺ちゃんの介護が大変だから、帰ってきてくれないかという電話だった。
東京にいる理由もないし、地元に帰ってもいいのかもしれない。
私はまたなんとなく地元に帰ることを決めた。
会社に1ヶ月後に辞めますと伝えると、家庭の事情だから仕方がないとあっさりと了承してもらえた。
私が辞めることを聞いた現場のオジサンたちが、次から次へと挨拶に来てくれた。
「寂しくなるな」
オジサンたちは誰もがそう呟いた。
そんなに交流のなかった人たちも多かったが、思えば私は可愛がられていた。
なんとなく働いていた会社だったが、思い返してみると辞めるのはやっぱり少し寂しい。
「お疲れ様でした」
最後の勤務を終えて、私は会社を後にした。
あとは引っ越し作業を終えるのみ。
ほとんどの物を処分したから、荷物は少なかった。
東京で眠る最後の夜……。
退職祝いでもらった日本酒の小瓶を開ける。
オジサンのセンスに笑いながら、日本酒を口にする。
飲みやすいさっぱりとしたお酒だった。
おつまみに作ったアヒージョとも良く合う。
ほろ酔い気分で私は眠りについた。
引っ越し当日の朝を迎えた。
引越し業者が拍子抜けするほどに、あっという間に荷物が搬出された。
掃除も終え、明け渡しに来た不動産屋に鍵を返す。
鞄一つで私は川崎駅に向かった。
もうお昼近い時間帯だったので、東海道線は空いていた。
家族連れが楽しそうに会話をしている。
地獄だと思っていた電車も、通勤時間でなければこんなにも平和なのか。
品川駅で新幹線に乗車する予定だったが、私は山手線のホームへと向かった。
東京でやり残した、最後のことをするために。
階段を下りると、今日も鰹だしの香りが漂ってくる。
ずっと気になっていた階段下のそば屋を食べてから地元に帰ろう。
かき揚げそばの食券を買い、暖簾をくぐる。
カウンターだけの狭い店内。
食券を渡すと、すぐにそばが出てきた。
熱い器を持って、山手線の見えるカウンターに陣取った。
「いただきます」
小さく呟いて、そばをすすった。
毎日嗅いでいた鰹つゆの香りが、口から鼻に通り抜けた。
初めて食べたのに、どこか懐かしい味。
食べながら、何本もの山手線が目の前を通り過ぎていく。
もうこの電車に乗ることもないのか……。
行き交う人々を眺めながら、私はそばを味わった。
「ごちそうさまでした」
と、食器を返す。
「またお越しください!」
店員のオジサンが笑顔で答えてくれる。
いつになるかわからないけど、東京に来た時にはまたここに来よう。
店を出る瞬間にふと思った。
そうだ、料理を作ろう。
まずは実家の家族に料理をふるまって、感想を聞いてみよう。
アヒージョなんて作ったら、「小洒落たもん作りやがって」なんてお父さんは小言を言うかもしれないけど、料理の感想を聞けるのは嬉しいことかもしれない。
仕事を探す時は飲食店で働くのもいいかもしれない。
料理と食べることが東京での一番の楽しみだったから。
私はまた、なんとなくそんなことを考えながら、新幹線のホームへと向かった……。
<終>
JR品川駅 山手線ホーム『常盤軒』
品川駅の山手線階段下にあるそば屋。
発車していく電車を見ながら、次の電車に間に合うように急いでそばを流し込むのもホームにあるそば屋の魅力。
『品川丼』というかき揚げ丼も名物メニュー。
ちなみに、階段上にある『吉利庵』という小奇麗なお店も同じ系列店。
品川駅には京浜東北線と中央総武線ホームにも『常盤軒』がある。
食べ比べしてみるのもいいかもしれない。